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30日ぶりで外の世界へ
ドレーンの管を抜いてもらって3日間、毎日ぶっとい注射器で溜まった滲出液を抜いていたが、ついに退院が決まった。4週間プラス4日ということで、ちょっと長めの標準コースというところ。
1月21日に入院して2月21日に退院……32日間。丸1ヶ月だ。長かったようにも思うし、早かったようにも思う。でも、いろいろ考えることの多い1ヶ月だったな……。私が普段送っている生活とはまるで違う時間が流れていた。入れ替わり立ち替わり友人たちがお見舞いに来てくれて、外の空気を持ち込んでくれるのは楽しく嬉しいことだったけれど、隔絶され置いてけぼりをくった気持ちにもなったりした。
例えば「明日4時頃に行くね」などとメールをもらうと、自分でもびっくりするくらい来訪を心待ちにしてしまい、シャワーや洗濯や売店での買物などをその前にきっちりすませ、3時45分頃からソワソワしている。そんなところに「ごめん! 会議長引いてる。1時間遅れそう」なんて連絡が入ると、おそろしく落胆してしまったりするのだ。忙しく働いている者同士では日常茶飯なことなのに、普段だったらこれっぽちも気にしないのに。ガッカリしている自分にもびっくりする。
そんなふうに考えることはそれまではなかった。だから、自分の人生で意味のある1ヶ月だったんだなと思う。
S先生の診察と処置はたいていは午前中だったけれど、手術日の水曜日だけは夕方の4時頃になる。手術が長引くと6時近くになることもあった。先生たちは手術を終えたその足で、オペ着のまま手術室から病棟の処置室に直行してくるのだ。手術直後のS先生はドーパミンが出まくっている様子で、異常にテンションが高い。6〜7時間の手術の後なのでさすがに疲れた表情はしているけれど、とにかく言動がハイテンションなのだ。先生にとって手術は何よりも楽しく興奮するものであるらしい。再建手術の時には外部の形成外科医や美容外科医が見学に来ていることもある。たいていは1〜2人だけど、4人くらいいた日もあった。私の時も誰かいたのかな……?
入院中は毎週ひとりずつ新規の再建お仲間さんが増えていった。私たちは同じ病を経てきた“同士”で“戦友”、すぐに打ち解け、たくさんの話をした。時には乳癌手術の患者さんたちもその輪に加わるが、彼女たちは5日から8日で去ってしまう。同士ではあるけれど、ひとりひとりの闘病物語はすべて異なっている。乳癌患者の数だけ物語の数がある。
私の翌週に手術したIさんは4週間マイナス3日のちょっと短め標準コースで、私の2週間後に手術したKさんはトントン拍子の3週間コースで、私たちは入院時期が違うのにほぼ同時期に退院することとなった。
懸念していた背中の傷は結局5〜6cm四方くらいが黒ずんでしまった。シャワー室の鏡で初めて背中を見て卒倒しそうになって以来見ないようにしていたが、退院が決まったので意を決して見てみたのだ。ほとんど皮膚が壊死してカサブタになってしまっている。頃合みて剥がすんだろうか……。背中の縫合痕はうっかり身体をよじったりすると、めちゃくちゃ引き攣れる。お辞儀程度の前屈み姿勢すらとれない。退院して日常生活に復帰していけば否応無しに動きが大きくなってくるからね、気をつけなくちゃ。かといって、じーっとしすぎても良くないし。日常生活でリハビリしてかなくちゃね。
『真田太平記』は朝と夜の読書タイムで12巻すべて読破し、予備で持ってきた文庫本に手をつけたところで退院が決まった。午後の3〜4時間だけ描いていた水彩画も3作品が完成した。“病室図書室計画”と“病室アトリエ計画”、どちらも目論見通り遂行できたのはまずまず有意義だったと思う。大荷物で入院してきた甲斐があったよ。
2月21日、朝一番でS先生の診察を受ける。私のベッドには午前中に次の患者さんが来ることになっていて、9時までに病室を完全に明け渡さなくてはならなかった。だから、もし私がいきなり高熱を出したとしても、解熱剤渡されるだけで退院の予定は動かなかったはず。
先週までは寒波到来で異常な寒さだったけれど、今日は明るい陽射しが暖かく春のよう。こんなふうに気分がいい日に「乳房がちゃんと2つある生活」をスタートできるのは、とても幸先がいいような気がする。
それは「自家組織再建手術予後の本当の闘い」のスタートでもあったなんて、微塵も考えずに私はしばらくぶりの自宅を喜んでいた。
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