Le moineau 番外編 - すずめのポルトガル紀行 -

いよいよ首都リスボンへ

朝の目覚めが悪くなってきた。だんだん疲れがたまってきているようだ。僧房を改装したホテルならではの石造りの床もじんわり底冷えする。それでも昼間は暑いんだろうなぁ。とりあえず今日も雨は降りそうもない空である。顔を洗って鏡を見たら、すごく顔が黒くなっていた。だって秋だと思ってたから、普通の下地クリームと普通のファンデーションしか持ってきてないんだもん。こんなに陽射しが強いってわかっていたら、UV効果バリバリのものを用意したのに……(泣)。

バスの予定は8:40。次は11時台なので、何としてもこれに乗りたい。オビドスは可愛くて綺麗な町で気に入ったけど、何度見ていても飽きないけど、結局同じところをぐるぐるするしかないんだから。見どころ満載のリスボンは3日間を予定しているが、それでも足りるかわからないので、早く着いておきたい。

7時半の開始を待って朝食。朝食を取るのは、ランチやディナー時にはそこそこの料理を出すレストラン。重厚で豪華な素敵な部屋だった。パンも美味しそうだったが、ケーキが何種類かあったのでケーキばっかり盛ってしまう。フルーツも種類が多く、ヒナコ大喜び。でもね、慌てなくてもいいけど、のんびりは出来ないんだからね?

フルーツは一口大にカットしてあるので、普通は楽なはず。でも、年相応に歯の悪いヒナコの口にはさらに半分にカットしないと入らない。メロンみたいなものがガリガリしてちょっと固かった。私にはちょっと固い程度なのだが、彼女には「切れない」「噛めない」となってしまうのだ。テーブルも高くてフォークとナイフが使いづらいのも、彼女の食べにくさに拍車をかけるよう。そのうち焼き立ての小さなナタが出てきたりして、見ると食べてみたくなり、それがまた温かくて美味しかったりして……思いのほか時間がかかってしまった。

ホテルのパンフレットよりスキャン。昼と夜はちゃんとしたレストランとなる朝食堂の雰囲気はとてもよく、お味と種類もまずまず

さあ、大急ぎで荷物を詰め込んで、でも昨日のことがあるから少し頭使って詰め込んで、歯を磨いて、トイレに行って……いかん、私まだスッピンだ……! ばたばたする時ってのはとことんそうなるようで、ヒナコが入ったトイレで水洗レバーが引っかかってしまい、タンクの水が止まらなくなってしまった。ああもう! どうして出発間際にそーゆーメンドーなことをしてくれるかね。ここのレバーは右側を押すと引っかかるから左を押そうねって、昨日学習したはずじゃないの。
小市民である私は、水道の水が無駄に垂れ流されているのは胸が痛んでそのまま立ち去ることが出来ないのであった。しまった、もう8時半だ。急いで会計してバス停まで10分で行かねば!

朝一番の身体が元気なうちなので、荷物を引いての坂道石畳も気合いで駆け登れた。きっとバスは時間通りに来ないと思っていても、やっぱりね…。ええ、バスは今日もちょうど10分遅れでしたけどね。ポルトガルのバスはちょうど10分遅れなくてはいけないという規則でもあるんでしょうか?と思うくらい、いつもいつも10分遅れ。
リスボン行きは高速バスなので、2階建ての立派なやつが来た。運転手から切符を買い荷物を預ける。リスボンまでは€ 6.05。2階に上がると一番前の席が2席空いていた。わ〜特等席♪ 子供だったら多分、大喜び。中年ムスメと喜寿越えバアさんだけど、喜んで座る。確かに見晴らしは最高。でも、バスは太陽の方向に向かって走っている。眩しい。ああ、また日焼けしちゃう……。

目的地が終点だと思うと安心して眠くなるようみたいで、少しウトウトしたようだ。気がつくと車窓の外の風景が、ビルの林立する都会のものになっていた。そろそろかな?とぼんやり思うと同時にバスは大きくカーブを回りこみ、ターミナルへと滑りこんでいく。ざわざわと乗客たちが立ち上がる。時計を見たらオビドスから1時間かかっていなかった。ナザレ〜オビドスの2倍以上の距離があるのに。やっぱりノンストップの高速バスは早い。

リスボン到着、最初の躓き

バスの停まったのは地下鉄カンポ・グランデ駅の真ん前。道を挟んだ向かいには、巨大なスタジアムの丸屋根がふんぞり返っている。後で調べたら、リスボンのクラブチームのひとつスポルティングの本拠地だった。
リスボンのバスターミナルもポルトと同じく、会社によって市内何箇所かに場所が分かれている。Tejo社のバスが発着するこのターミナルは、メトロのカンポ・グランデ駅に直結している。バスを降りた人々が、また、道路を渡って来る人々も、足早に吸い込まれていく目の前の建物に素直に着いて入っていけばいいものを、2〜3歩踏み込んで、いやここは国鉄駅だと寝起きのボケた頭の私は思い込んでしまった。もう7〜8歩進んでいれば、貼ってあるメトロ路線図が否応なく目に入ったはずなのに。

註)実はエヴォラに行く時に使うセッテ・リオスのバスターミナルがそういう位置関係にあったのだが、それを混同していただけのこと。

ヒナコを物陰で荷物番に立たせ、メトロ駅を探し回る。目の前の建物は国鉄駅で、少し離れた場所にメトロがあるはずだと思い込んでいるから。国鉄駅(と思い込んでいる建物)の回りを通路に沿って一周し、おかしいなあと思って横断歩道を渡りさらに外側から一周し、誰かそのへんの人に尋ねようと思った時。道路を跨いだ連絡橋が見え、その横腹に大きく『M』の文字があるのが見えた。メトロのロゴマークではないけれど、あれがきっとメトロへの連絡橋だ!

いそいそとまた横断歩道を渡り、連絡橋のたもとまで行き、その建物の階段を登るとメトロの駅だった。向い側に下り階段があり、下りるとその10mほど先の道路にヒナコが所在なげに立っていた。ああ、お馬鹿さんな私。こうして無駄に歩数を増やしているのだ。

とりあえずシングルの切符を買う。ヨーロッパの都市部の地下鉄や市内バスは、一律€ 1というところが多いけど、€ 0.75だった。全体的に見てポルトガルの物価は他の欧州諸国に比べて60〜70%くらい安いみたい。カフェでコーヒーを飲んだり、スーパーで水を買ったりする時にそう思う。ユーロ高の現在、大変ありがたいことである。

ちなみにメトロ駅にはそれぞれ違った“タイルアート”がある。これはカンポ・グランデ駅のもの。古典的な絵柄をわざと組み違えてあるのが面白い。ともにリスボンメトロのHPよりお借りした

こちらはバイシャ・シアード駅

メトロ路線は青、黄、緑、赤の4路線。カンポ・グランデ駅からバイシャ・シアード駅まで、緑線で6〜7駅だ。予約したデュアス・ナソエス・レジデンス Hotel Duas Nações Residence [>>WEB ]は、駅出口から出て一直線に1〜2分、リスボンで一番低いバイシャ地区Baixaのど真ん中、賑やかなアウグスタ通りRua Augustaにある。古い建物の2星だけど、最寄り駅には緑線と青線2本のメトろが通っていること、空港バスの乗場にも徒歩圏内であること、夜遅くまで人通りがあること、でも歩行者専用道なのでクルマがうるさくないこと、何より値段が安いこと!…で選んだ。なにしろ都市部でありながら€ 55ですから。
ここは、トイレとバスが共有設備の部屋もあるので、浴室付きにこだわらなければ、さらに€ 20は安い。ひとり旅ならそれで充分なのだけれど、ヒナコは徹底して部屋に浴室を望むので仕方ない。

註)必ずしもバスタブにはこだわらないようで、シャワーオンリーでもOK

そんなわけで、カンポ・グランデの駅で30分くらい時間を無駄にしたけれど、ホテルには10時ちょっと過ぎくらいには到着した。小さい宿だから、時間も早いしまだ部屋に入れないかもな、だけど今日は考えて荷造りしてきたから預かってもらう時にも慌てないもんね、へっへ〜〜だ。意気揚々とチェックインを申し出た。

レセプションの黒人青年は、私の名前を聞き、予約確認書も見、何度か端末を叩き、軽くため息をついた後、何ごとかを立て板に水の勢いで喋り始めた。え?え?え?ちょっと待って。今「Complete」って単語が聞こえたんだけど? 固まる私にさらに、青年は「リスボンのタウンマップを持っているか」と言った。地図? 何でホテルにチェックインするのに地図が要るのさ? その前の全文が聞き取れてないので、頭の中でクェスチョンマークが明滅している。とりあえず「地図は持ってるか」の問いに対してだけ「まだ持ってない」と答えると、青年はリスボンのマップを取出し、「ここがウチのホテル、で、ここがホテル××」とボールペンで印をつける。ちょっともう一回ゆっくり言って。…やっと飲み込めてきたゾ。満室だからホテルを振替えると言っていたのだ。夜遅くの到着だとそういうメに遭うことはあるが、まだ午前中なのに……。

註)実はちょっと予感はあった。私は1泊€ 55で金〜日を予約したのだが、直前になって予約サイトを見たら金曜日だけ€ 85になっていたのだ。その時は「さっさと予約しておいてラッキ〜♪」と思ったのだが。金曜の1泊にホテル側として問題が生じたということだろう

リスボンでは3泊する予定だ。途中で移動はイヤだ。「1泊だけ?」と聞くと「いや3泊とも。同料金にするから精算はで向こうでしてくれ」
振替え予定のホテルは、バイシャ・シアードの駅反対側出口のシアード地区Chiadoにあるようで、駅からの距離感は同じくらいだ。ふむ。立地条件と値段が同じとなると、あとはホテルの格の問題だな。予約時に調べた候補ホテルの中に、提示されたホテルの名前はなかったので、全然予備知識はない。でも、ここが2星だから、それより星が落ちるということはないだろう。シアード地区は高級ブティックや老舗カフェのあるエリアだから、同料金なら寧ろアップグレードになるかもしれない。などと考えて振替えを了承した。もともとディスカウント価格で予約してるんだから。

レセプションの呼んでくれたタクシーでホテルに向かった。勿論タクシー料金はホテル持ちである。バイシャ・シアードの駅を挟んでバイシャ地区とシアード地区はかなりの高低差があるので、車はぐるっと大回りして走る。ヒナコが不安がり始めた。「ちょっと。なんか離れちゃうんじゃないの?」いや、直線距離ではそう離れてないと思うけど……?

到着したホテル・ボージェスHotel Borges [>>WEB ]はシアード地区で一番賑やかなガレット通りRua Garrettにあった。歴史のありそうなふたつのカフェの間に玄関があり、すぐ近くにメトロの入口が見える。うんうん、場所はいいんじゃない?
入ってみるとロビーの雰囲気は2〜3星ホテルのそれだった。うー……む。部屋はあんまり期待出来ないかも?

通された部屋は広かった。このクラスのホテルでは2部屋分あるのではないかという広さ。狭くて最低限の調度でも、ベッドカバーや壁紙やカーテンが可愛かったり、絵の1枚でも飾ってあったり、それなりに居心地はいい部屋はある。が、ここには小さなベッドが2つ、スタンドやTVはおろか灰皿すら乗っていない小さなデスク、小さな2人がけソファ、扉1枚分の狭いクローゼット。最小の家具が四方の壁際に押し付けられ、その真ん中に8畳か10畳分はあるのではないかと思うただ無駄に広い空間があった。これが調度が豪華だったり、ベッドがキングサイズだったりすれば広くてゆったりした印象になるだろうに、広い空間に小さなショボイ家具がぽつんとあるだけでは、ただただうら寂しい。

ホテルのHPよりお借りした写真。観光拠点としてはナイス・ロケーションだと思う。地区自体もお洒落だし、メトロ入口まで30秒、トラム乗場まで1分…

もう少し中央の空間がムダに広くて、カーテンやカバーがもっと地味で、TVも飾った花もない…この写真から40%イメージダウンさせた感じ(笑)

窓を開けてみたら、人ひとり立つのがやっとのスペースの小さなバルコニーが屋根の上に乗っていた。低い手摺をひょいと乗り越えたら屋根のてっぺんに登れそう。でも、あらまあ、眺めはいいじゃないの! ガレット通りと斜め方向にカモンイス広場を見下ろし、遠くに低いバイシャ地区の家々の連なりの向こうにカテドラルのてっぺんやサン・ジョルジュ城の一端まで見通せる。ここを2部屋に分けることをしなかったのは、最上階の角部屋なので2方向に屋根の勾配があり、天井が斜めになるからだとわかった。

よしよし、じゃバスルームはどうでしょ、とドアを開けてびっくり。今まで泊まったホテルの中でもバスタブ付きのバスルームとしては最低の狭さ! 無駄に広い真ん中の空間部分を1畳分でもバスルームに分けてやって欲しい。バスタブの幅は通常と同じだが、形は正方形──つまり団地の浴槽より狭い。それでも深さがあれば浴槽として機能するが、浅い。これはバスタブというよりは、深めのシャワーの受け皿と考えた方がよいかも。
問題は便器の向きだった。身長150cmのヒナコでも、座ると壁に膝がぶつかる。164cmの私は便座に尻を斜めに置くしかない。これって男性は小用の際、便器の前に立てないのでは…? ていうか長身のヒトは横向きに座るしかないのでは……? いやバスルームが狭いのはいいのだ。何故便器をこの方向に設置する?? 90度角度をずらせば、足は洗面台の下に伸ばせるのに………。うーむ、ここはやっぱり2星だな。

まあ、いいや。都市部の2星では、設備は何も期待してはいけないのだ。立地条件は落ちていないのだから良しとせねば。寧ろ、安く庶民的な食事処のあるバイロ・アルト地区に極近なので、滞在中の立地としては良いかもしれぬ。部屋点検はこれくらいにして、さっさとリスボンの街に出よう。今日は世界遺産のジェロニモス修道院のあるベレン地区Belémに行くのだ。

ホテル横のカフェのひとつはリスボン最古のア・ブラジレイラだった。ポルトの老舗カフェ、マジェスティックには行きそびれたからここには滞在中に行きたいわね。起点を最初の計画通りに戻すために、メトロの構内を抜けて反対側の出口に出てみよう。駅を挟んだバイシャ地区とシアード地区には高低差があるとは知っていたが、想像以上だった。バイシャ地区側の出口にはエスカレーター2本で出られたのだが、シアード地区からは1.5倍は長いエスカレーターが4本!

喧嘩の火種は些細なことから

まずは観光局で「リスボン・カード」を入手しなくてはならない。市内交通や近郊線が乗り放題で主要観光スポットが無料または割引になる、ある程度の規模の街には大抵ある特典満載のカード。1日券が€ 14.85、2日が€ 25.50、3日が€ 31。1日券のモトを取るのは微妙だし、値段差から2日券も微妙だが、3日券となるとかなり便利だろうと踏んだわけ。

バイシャ・シアード駅の構内をくぐり抜け、バイシャ側の出口にもう一度出る。市内に観光インフォメーションは何箇所かあるが、現在位置および次の行動を考えるとコメルシオ広場Pr. do Comércioに行くのが一番適切。別名「宮殿広場」とも呼ばれるテージョ川に面した大きなこの広場は、三方を郵政省や海軍省などの豪壮な建物に囲まれた美しく開放的な広場だ。確かヨーロッパ一番の大きさのクリスマスツリーが毎年ここに立つのではなかったか? 広場の入口には、壮麗な勝利のアーチArco da Victóriaが堂々とした姿を見せている。本来予約してあったホテルのあったアウグスタ通りから一直線に奥に見えた門である。
「ほら、さっきのホテルから見えてた門だよ」私がホテル入口を探していた時、ヒナコは門の方向を見て立っていたので、当然覚えているものと思い、そう口にしたまでだった。

ところがヒナコときたら……。ろくに休憩しないで連れ出されたからか、暑かったのか、虫の居所が悪かったのか、バス路線が20本くらい集中する広場の雑踏にイラついていたのか。
「見てないわよッ!」いきなりキレられてしまった。
「背の高さだって違うんだからッ! 同じように見えるわけじゃないのッ! 歩く時は歩くことに集中しなきゃならないんだから、まわりなんて見えないッ」小さいものならともかく、あんなに堂々とそびえていたのに。立ち止まってしばらくそっちを向いていたのに。目に入ってなかったのなら「アラ、さっきは気づかなかったわ」の答えでいいのに……。

ヒナコが理不尽にキレる時──大抵は「人混み」「騒音」「車がガンガン走る」「眩しい」「暑い」このうちの幾つかが揃った場合だ。ここに歩いて来るまでの僅かな距離にそれは全て揃っていた。まあ心穏やかになる環境ではないから、イラつくのも解らないでもないけど。とはいえ私だって聖人君子ではないので、そんな言われ方をすればムッとくるんである。とりあえずその場では彼女に対し沈黙したが、軽くイラッとした気持ちは残った。



コメルシオ広場側から。「同じモノが見えるね」って言っただけなのに……

アウグスタ通りから見た勝利のアーチ。真正面にそびえ立っている。ともにパンフレットからスキャニング

観光インフォメーションは混んでいた。窓口は4つ開いていたが、7〜8組の列が出来ている。私は列に並んだが、ヒナコは隅にある椅子を見つけて腰掛ける。だがそれはインターネットスペースのものだ。「ダメだよ、そこはネットする人の席だから」
ヒナコは空いてるんだからいいじゃないと開き直るほど図々しい婆さんではないので、立ち上がって渋々私の隣に立ったが、なんとなく不機嫌そう。私は「さわらぬ神…」状態に徹した。

窓口に係員はたくさんいるので、混雑の割には待つ時間は少なく、すぐに私の番は来た。リスボン全体の地図を貰い、リスボン・カードの購入を申し出る。
「3日目の日曜午前中に無料になる場所が多いわよ?」…あっ、そうか。うーん、どうしようかな。
「ところで、3日券って『3日間』なの? 『72時間』なの?」もう正午に近いので、4日目の午前中も使えるのか否かは、割と重要に思えたから。「72時間」という返答を聞いて、3日券を買うことにした。
観光局のHPにもガイドブックにも、大人用と子供用の値段しか書かれていなかったが、試しに「シニア割引はあるの?」と聞いてみた。案の定、子供用と同じ半額の€ 15.50だった。よしよし。
だけど、このシニア半額というのも、彼女が不機嫌になることを正当化する理由であるらしい。曰く「半額なんだから自分は半人前なのだ。従って2倍思い遣ってくれなくてはならない」
(……はいはい)。心の中で二つ返事した。私の沈黙を彼女が肯定否定どちらに取ったかは、わからない。あんまり説得力のある理由とも思えないけど、余計なこと言って無用な諍いになるのを避けたかっただけに過ぎない。

火種は燻ったまま埋み火となっていた

ベレン地区Belémは、リスボン中心部から川沿いに6kmくらい西に離れたエリア。電車でもバスでも市電でも行けるが、ここからなら市電乗場が一番近くてわかりやすい。リスボン・カードに使用開始日時と署名を書き込み、いざ出発。

乗るべき15番の市電は5分ほど待つだけで来た。リスボンの写真といえば必ず古い車両の市電が写るものがあって、それがまた情緒を醸しているのだが、この15番は最新の2両編成のもの。これがまた結構混んでいたのだ。日本のバスなどでもそうだが、優先席は乗車口すぐ近くにあり、年寄りなヒナコはすぐに席を空けてもらえる。大変ありがたいことなのだが、私は混んでいる車両で一緒にそこに座るわけにはいかない。彼女の近くに立つわけだが、乗車口近くなので後から乗って来る人たちに押されて奥に進まざるをえない。なるべく奥に行き過ぎないように努力はしたけど、ガンと踏ん張って通路を塞ぐわけにはいかないのだ。

ベレンまでは20分以上は乗らなくてはならない。ヒナコが「どのくらい乗るの?」と聞いた時「結構乗るよ。20〜30分くらい?」と答えておいたが、車内で私が離れてしまったことで不安になったようだ。市電やバスでは外の風景から降車場所を判断するしかないわけだが、立っていると車窓風景が見づらい。ハッと気づくと巨大なジェロニモス修道院Mosteiro dos Jerónimos [>>WEB ]の建物が見えている。慌ててヒナコに「降りる! ココ! ココ」と叫ぶ。

それなりに観光客が何人かいたので無事に下車出来たのだが、不安になってたところを急かされて、ヒナコはまたも機嫌が悪くなったようだった。でも、初めて来た場所で正確なことが私にわかるわけがないじゃないの。努力はしてるんだからさぁ。

市電の停留所前には、修道院の長大で壮麗な建物が、明るい陽射しの中にその姿を横たえている。
急かされたことにヒナコがムカついているのは解っていたが、あえて取り合わずに、楽しい方向に気分を向けさせるつもりだった。「わあ〜〜大きいねぇ! 綺麗だねぇ!」まったくもう、面白くない番組で客席を盛り上げるべく奮戦するADの方々の気持ちがホントによくわかる。
が、それを無視して燻っていた火種を再燃させたのはヒナコの方だった。ぐずぐずと自分のしんどさを、今いかに慌てさせられたかを訴え始める。

挙句「どうせ、あんたには私の不自由さが解らない。なってみなくちゃ解らない」
私は、この「あなたにはどうせ解らない」という言葉が大嫌いだ。勿論、同じ立場に立ってみて初めて解ることってたくさんあるよ。だけど、その辛さをいろいろ聞いて推し量り対応していくことが「思い遣り」というものではないだろうか。確かに立場が違えば、完全に推し量ることは不可能だろう。当人からしてみれば、見当違いだったりする場合もあるだろう。それでも、解ろうと努力している相手に対し、辛さだけを言い立てて最後に「どうせ解らないから」と切り捨てるのは傲慢だと思うのだ。それでは違う環境や立場の人間は共存していけないではないか。一緒に不自由になれば納得するというのか? …そうじゃないでしょ。「どうせ解らない」の言葉は、あくまで自分を納得させる場合にのみ自分に対して向ける言葉なのだと、私は思う。

仏の顔だって三度、一度目にムッときたのは押さえ込んだが、二度目は仏になれなかった。思わず上記のような言葉を口にしてしまった。だが、ヒナコはもう聞く耳持たない状態となっていた。
「これからは邪魔者なしでひとりで好きなところに行けば! いない方がせいせいするでしょッ」メソメソ泣き始める。
あー……あ。こうなったらもう私は、「か弱い年寄りを虐める悪者」にしか見られない。親の心子知らずと言うが、その逆もまたあることを知っていただきたい。それでも傍から見て私が虐めてるみたいなのは確かなので、とにかく気持ちを切り替えることにした。まずはジェロニモス修道院を見てから近くの有名パステラリアでお菓子を食べるつもりだったが、順番を入れ替えよう。ね、美味しいモノ食べて気持ちを晴らそうよ! ヒナコはまだぐずぐず言っているが、「美味しいんだってよ、大評判なんだってよ」と繰り返す。いや、昔の私はいちいち頭に血を昇らせていたものだが、ずいぶん寛大になったモンだ(笑)。ま、多少釈然とはしないが、この場合は正論かそうでないかの問題ではないから。

激ウマ・ナタで一気に消化

ポルトガル中どこにでもあるお菓子、ナタ。一見タルトのような丸く折ったパイ皮(日本で一時期流行ったエッグタルトは文字通り「タルト」だった)にカスタードクリームのようなクリームを詰めて、表面に焦げ色がついている。この焦げ色はかなり濃く、キツネ色を通り越してタヌキ色に近い。
これから行く、ナタの超有名な『パスティス・デ・ベレンPastéis de Belém [>>WEB ]』は創業1837年という老舗中の老舗。

>>ここで『すずめのトリビア』。ここんちのナタは隣のジェロニモス修道院から伝えられたレシピを守っていて、その配合を知る人は常に3人しかいないという。何でも3人のひとりが離職する際は口外しない念書をとって次の誰かに伝えるのだとも。修道院発祥のお菓子が多いのは、かつては僧衣を留める糊がわりに卵白を使っていて、余った卵黄を何とかしようとしたからだそーでぇす!

そういう能書きもさることながら──。リスボンを訪れる人は、ほとんどが世界遺産のジェロニモス修道院を見てセットのようにココでナタを食すわけで。様々なコメントを読む限り、ほぼ皆が「美味しかった!」と言っているのだ。一言くらい「いやー、そんな大騒ぎするモンじゃないっしょ」てのがあってもよさそうなのに、みんなして絶賛。これまでの1週間、3〜4種類の店でナタを食べてみて「うん、確かに『ナタ』は美味しい。日本で流行った『エッグタルト』とは別物。店によってそれぞれ違ったがそれぞれ美味しい」という結論は出ていた。じゃあ、ポルトガル一番というナタっていったいどれだけ美味しいのよ! ま、それを確認したいために、これまで何店鋪かで試したといってもいいだろう。

今ひとつ御機嫌モードに戻らないヒナコの手を引いて、件の店に向かう。正面入口の前の歩道には、ポルトガル語で店名と創業1837年との文字が石のモザイクで組まれている。外壁の青いアズレージョ装飾と青い扉、青いシェードが爽やかな印象。早速入ってみた。テイクアウトでナタを買う人々でレジ回りは大混雑だが、奥の喫茶室は幾部屋もあるのでここでビビって引き返してはいけない。団体専用みたいな味気ない空間もあるが、どの部屋もタイル装飾が綺麗だ。

ここのナタは小振りなので、ひとり2つくらいは軽くイケると踏んで、ナタ4つとカフェ2つをオーダー。凄まじい量が出るからどんどん作るのだろう、ホカホカ焼き立てで出てきた。フワッと甘いカスタードの香りが立ち上る。テーブルに置いてあるシナモンパウダーと粉砂糖を振り、かぷり……。うわっ、美味しい! 段違いで美味しい! クリームのきめ細かさ滑らかさ、皮のさっくりパリパリ具合、控え目な甘さ。これは甘いモノが得意でない人でも美味しいと言うに違いない。私だったら半ダースは食べられる。10個でもいけるかも(流石に気持ち悪くなるかしら)。

絶品・別格のナタ。画像はともに『パスティス・デ・ベレン』のHPよりお借りした

それぞれ雰囲気の違う部屋がいくつもある。ガラス越しだが、奥のキッチンも見られる

「おーいし〜〜〜ねぇぇ」ヒナコの機嫌が戻った。よっしゃ! 先にお菓子食べさせて大正解! おまけに、不機嫌の詫び及び大感謝の言葉もいただいた。うん、感謝されたくて一緒に来ているわけではないけれど、やっぱりそういう言葉をかけてもらえれば張合いも出るというものだものね。
でも、私も嬉しい。甘く温かく優しい食べ物って、幸せだわ。諍いもフッ飛ばしちゃうんだわ。超有名な老舗なのに高くないのも偉い。ナタ4個とカフェ2杯で€ 4.90だった。ひとり¥400ちょっとということ。

栄華の象徴の豪奢な修道院

さっきの喧嘩もどこへやら、美味しいナタに大満足し、にこにことジェロニモス修道院へと戻る。ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路発見の偉業を讃え、新天地開拓への航海安全祈願のため建てられた壮麗な修道院は、富をこれでもかと注ぎ込んだそれはそれは豪奢なものである。
市電を降りた場所から一番近い南門Portal Sulは、繊細な彫刻に彩られている。修道院への入場口となる西門の彫刻も見事なのだが、後に付け加えられた西棟の壁に覆われてしまって、外から全体を見られないのが残念だ。その西門からサンタ・マリア聖堂Igreja S. Mariaに入る。入場料はリスボン・カード提示で無料。

ポルトガル黄金期を象徴するジェロニモス修道院。絵葉書よりスキャニング

翼廊と身廊の交差部の天井に嵌め込まれたブロンズの紋章は“大航海時代の象徴”そのものの、帆船の形をしていた。堂内に林立する柱は八角形をしていて、全面に緻密な装飾が施されている。ドーム天井の肋材も曲線が滑らかに絡み合ったもの。大理石そのままの重厚で硬質な内装の聖堂もよいが、石の質感を感じさせないこうした優美で柔らかな内装もまた素晴らしいものなのね。天井の繊細な畝と柱の繊細な彫刻は、入口脇から聖歌隊席まで登ると、さらに間近に見られる。当然、黄金時代の立て役者ヴァスコ・ダ・ガマの棺もこの聖堂内にあった。

以下すべてジェロニモス修道院のHPよりお借りした画像。扉や窓の上のアーチ部分に繊細な彫刻が施された南門。聖ジェロニモスの生涯を描いたものらしい



精緻な柱の彫刻。南洋の椰子の木をイメージしているらしいが、確かにそんな印象
交差する肋材は星のような連続模様。航海に天文学はつきものだったろうから、これは「星空」なのかもしれない

そしてやっぱりこの修道院の最大の見どころは、中庭を囲む回廊Claustro。大きさも勿論だが、柱を繋ぐアーチや肋材のカーブが多中心であり、曲線ひとつひとつに軽やかな躍動感がある。その美しいライン表面にさらに施された装飾の、華麗で繊細で優美なことといったら! ポルトのカテドラルのものは見損ねたが、コインブラのサンタ・クルス修道院と旧カテドラル、バターリャの修道院、アルコバサの修道院──そのどれよりも豪奢なものだった。それなりに観光客がウロウロしているので、中世と同じ静寂を味わうには程遠いものだが。やはり大航海時代と東方交易の象徴なのか、あしらわれている彫刻は帆船であったり、船のロープのような縄目模様であったり、胡椒の実や南方の植物であったりする。
中庭から射し込む明るい陽射しによって、この繊細な彫刻には、さらに複雑な陰影が生まれる。角度を変え、露出を変え、人が通り過ぎるのを待ち、回廊1階側から、2階側から、中庭側から、さまざまな撮影したのだが、その全てを失ってしまった。ああー、残念だ。

回廊は2階建。柱の間に多中心に幾重もの弧を描くアーチは、石の質感を感じさせない


壁面に古いアズレージョが施された部屋。絵柄は椰子の木や南方の国の風景
聖堂の内陣部。派手さはないが、なかなか荘厳な雰囲気

ともあれ、このジェロニモス修道院が、ポルトガル黄金時代の栄華を象徴する壮大な記念碑であることは間違いない。

午後のテージョ河畔を歩く

修道院前の道路をはさんで向かい側、公園のようなインペリオ広場Pr. do Impérioを横切って国鉄線路をくぐるトンネルへ。くぐった先にはテージョ川に面して発見のモニュメントPadrão dos Descobrimentosが立っている。1960年の建造というから、新しいもので歴史的価値はないけれど、川を渡る風が心地よく、対岸を結ぶ4月25日橋Ponte 25 de Abrilなども見晴らせて、気持ちのいい空間だ。橋の向こうには、両手を広げた巨大なキリスト像クリスト・レイCristo Reiが屹立しているのも見える。このクリスト・レイ、110mもあるっていうから、高崎の観音様の3倍近くっていうこと。何かのついでに立ち寄れる場所ではないし、側まで行って見たってどうというものではないだろうが、登れば眺めはいいんだろうな。

発見のモニュメントは、大航海時代黎明期の重要人物、エンリケ航海王子を記念して建てられたもの。このヒトがいなければ海洋国ポルトガルはありえなかった。モニュメント全体が帆船の形であり、先頭に王子、続いて黄金期の功績者マヌエル1世、ヴァスコ・ダ・ガマやマゼラン(王室とモメてスペインに移っちゃったけど)などの船乗り、天文学者とか地理学者とか、大航海時代に貢献した人たちの像が並んでいる。エンリケ航海王子──この人は結局王位を継ぐことがなかったので、今でも「王子」のままなんだろうね……。



瞼に残るアングル。これで絵が描きたかったのに……

テージョ川に向かって今まさに出航せんとばかり建つ発見のモニュメント。造形としては面白いと思う。絵葉書よりスキャニング

モニュメントの立つ広場には、大理石のモザイクで世界地図が描かれていて、その地の発見年号が記されている。少しヘンな形をした日本の横には、1541年とある。世界史の授業で語呂合わせで覚えたのは、1543年だったけど? 「以後予算(イゴヨサン)かかる鉄砲伝来」ついでに「1549(イゴヨク)敬えキリスト教」──しかし、こういうコトって結構覚えてるものですね(笑)。まあ、ポルトガル側からすれば2年早く漂着していたと……そういうコトでしょうか。でもさあ、「発見」てのはちょっと上から目線ぽくて、何だかなぁ。「邂逅」とか言ってくれないかなぁ……。私たちは未知の動物だったわけじゃなく、ずっとそれなりの文化を持って暮らしていたのだから……。

このモニュメントにも中から登ることが出来るのだが、あまり意味を感じなかったので入ることはしなかった。リスボンカードでも割引になるだけだったし。

そのまま、テージョ川沿いを河口方面に、ベレンの塔Torre de Belém[>>WEB ]目指して歩く。今日も空は高く青く、それを映した水面も青く、午後の光がさざ波に反射してスパンコールのようにキラキラと輝く。振り返ると青い空と青い川面に白いモニュメントの対比が艶やかだ。のんびりと散歩する人、釣り糸を垂れる人、遠くに霞む船影、悠然と舞うカモメ……、ゆったりした午後のひとときだ。陽射しは相変わらず強いけど。
このまま川沿いにベレンの塔まで到達出来るのかと思ったが、一度道路側に迂回しなくてはならなかった。道を繋げてくれればいいのに……。

記憶に残る写真。キラキラのさざ波がホントーに綺麗に撮れたのに……


優美な「テージョ川の公女」

いったん道路に出て少し歩き、公園のような緑地を横切ると、木々の隙間から河畔に建つベレンの塔の白い姿が見えてくる。芝生の上に座り込んで、しばらく塔と川との景観をのんびりと楽しむ。水際に佇む白く優美な石造りのこの塔を、ドレスの裾を拡げた貴婦人に譬えて「テージョ川の公女」と呼んだのは、かの司馬遼太郎氏。もともとは河口を守る要塞だったこの塔は、二度と帰れないかもしれない船乗りたちの旅立ちを見送り、また満身創痍で故国に辿り着く船を優しく迎えてもきたのだろう。

>>ベレンの塔を撮った写真では、この木々越しに望むアングルが一番気に入っていた。同じ場所から撮ったものは発見出来ない……。これも失くして悔やむ1枚。

塔は2層の堡塁に4層のタワーという構造になっていて、入場はリスボン・カードで無料になる。橋桁を渡って窓口へ行くと、「IDカードを見せろ、どうしたこうした」と言われる。はい? 意味わかんないんだけど。無料になるカード持ってるでしょ? この上割引なんて望んでないんだけど? よくよく聞いてみると、案の定「学生ならそれを証明するカードがあるだろ」みたいなことを言っていたのだ。だ・か・ら! 学生じゃありませんからッ!

絵葉書よりスキャニング。気品溢れる姿のベレンの塔

記憶に残る、本日の一番残念な1枚。塔はもうちょっと違う角度だったかも

切符売場を通り抜け真直ぐ進んだテラス下部分には、外側に向けてズラリと砲門が並び、砲台が据えられている。なるほど、確かにこれは要塞だわな。そして地下部分は政治犯などを幽閉した水牢になっている。満潮時には全身水に漬かるという牢……考えただけでイヤな拷問だわ。こんなところに閉じ込められるくらいなら、すっきり溺死させてくれって感じ。

橋桁を渡って中に入る。この下が水牢になっている

砲台は10個くらいあった

1階部分と地下部分は、血なまぐさい雰囲気がムンムンしているのだが、2階のバルコニーは優雅な装飾の施された開放的な空間だ。しばし川風を味わってから、4層になる塔への階段を登る。外観から「タワー」という印象があまりなかったので軽く考えていたが、石段は結構狭くて急だった。あくまで「ヒナコを登らせるには」であるが。しかし、延々と螺旋階段を昇り降りするのではなく、一層ごとに部屋があるので、他人さまにかける迷惑度は少なく済む。

バルコニーを上がって最初の階は武器庫Sala do Governador、次が国王の間Sala dos Reis食堂Sala das Audiências礼拝堂Capela、屋上テラスと続く。
この塔もジェロニモス修道院と同じく、随所にある装飾は天球儀や貝や海草など、海や航海に関連したものが多い。壁に沿わせたロープとその結び目の彫刻は、まるで塔をリボンで飾っているようで、一層優美で柔和な印象を強めている。綺麗な顔していても、地下には水責めされている人たちいるのだけど……。塔の角に据えられた丸屋根の可愛い監視塔は、電話ボックスよりも狭く、人ひとりがぴっちり立つスペースしかない。

以下すべてベレンの塔のHPよりお借りした。柔らかな彫刻で飾られた4層の塔。2階のテラスの先端部にマリア像があり、船乗りたちは無事を願って出航したという

丸屋根の監視塔が可愛いテラスは、潮混じりの川風が気持ちいい 5階の食堂部分。各層ごとに雰囲気がまるで違う

屋上テラスから階段を降りる。登りの際ワンフロアずつ見学していったのだから、普通は一気に降りるものなのだが、ヒナコのあんよにそれは望めない。帰りもワンフロアずつ一時停車。実は私は、このあと2箇所くらいどこか入れるかなーと目論んでいたので、少しばかり気持ちが焦れてきた。うーん、でも、さっき派手に喧嘩したのだから……ここは我慢我慢。

再び橋桁を渡り塔の外に出て、幾方向からか外観を眺める。一番美しく見えるアングル探しでもある。傾きかけた陽射しが若干黄味を帯びてきているが、日没まではまだかなり時間がある。パックツアーの場合は、ジェロニモス修道院と発見のモニュメント、このベレンの塔の3点セットを見てとっとと次に行ってしまうようだが、私はさらに国立馬車博物館Museu Nacional dos Coches[>>WEB ]アジュダ宮殿Palácio Nacional da Ajudaを加える予定であった。だが、例によって時間はじわじわ押していて、これから2つのスポットを両方訪ねるのはもう無理だ。どちらに行くにしてもバスに少し乗らないといけないので、モタモタしていたら着くなり閉館時間ということになってしまう。

どちらに行くか悩んだが、ガイドツアーによる見学のアジュダ宮殿は諦めることにする。ちょうど英語のツアーに当たるかわからないし、下手したら他言語の最終にも間に合わないかもしれないもの。馬車だけを集めた博物館というのは珍しいし、そっちの方が価値あるかな、と。

再び緑地を横切り、バスに乗るために道路へ出る。もう5時に近くなっていて、博物館の閉館まで1時間しかない。バスだってすぐ来るかわからないし、こういう単純な移動の部分は早足になりたいのだが、ヒナコのあんよは散策レベルのスピードでしか動かない。うーん、焦れる焦れる……。気分としては、バス停までは急いで欲しいところなんだけど。

馬車に関するモノいっぱい

馬車博物館はベレンの塔から停留所3つ分戻った場所、ウルトラマール庭園の一郭にある。ジェロニモス修道院のひとつ手前、何番のバスに乗っても大丈夫だった。
ここもリスボン・カード提示で無料。王宮付属の乗馬学校の建物を利用した建物は、外観は大したことないが内部のネオ・クラシック様式の装飾は見事だ。豪華な天井画のある広く薄暗い空間に、馬車がズラリと並んでいるのはなかなかに壮観。ほとんどが王侯貴族のもので、金金ピカピカきらびやか。こてこての装飾が凄過ぎて、馬車なのかどうかわからないようなものもある。その時代には、王様やお姫様がこういうキラキラ馬車に乗って、キラキラ飾りをつけた白い馬なんかに牽かれて街中を練り歩いたのだろうか。

以下すべて馬車博物館のHPよりお借りした。天井画の美しい空間にズラリと並ぶピカピカ馬車

続き間には、庶民向けの乗り合い馬車もあった。びっくりしたのが、駕篭のようなものがあったこと! 中が椅子になっているだけで、日本の駕篭と同じだ。考えてみると、これだけ傾斜の多い国だものね……馬では牽けないところもあるでしょうよ。
2階部分は回廊になっていて、御者の衣裳や、きんきらの馬具が展示されている。回廊の上からは大広間のきんきら馬車群を見下ろせる。王子様の幼い時専用と思われるベビーカーサイズの馬車まである。ポニーが牽いたのかしら……? 小さいくせにキラキラ飾られているのが生意気に可愛い。馬の衣裳もあった。とにかく馬車に関するモノでいっぱい。



一番豪華絢爛だったのがこの馬車。ここはお尻の部分なのである。正面及び側面も同様にキラキラコテコテしていた。一体何頭の馬で牽いたのだろうか? 物凄く重そう……

大半はこのくらいの装飾。乗ったら気分良さそう♪

これはまったくもって「駕篭」である。中が椅子なだけに乗り心地は悪そうだ

どうせ無料で入れる場所だし、途中だし…と寄った博物館だったが、コレが意外と楽しめちゃったのである。内部の絵画やアズレージョも綺麗だし。世界遺産のジェロニモス修道院とベレンの塔だけでなく、時間があったらちょっと立ち寄ってみるの、おススめ。
思いのほか満足して馬車博物館を出る。そろそろ6時、さて、今日の日没はどこで見ようか?

とりあえずリスボン市内に戻らなくては。太陽はそろそろ傾きかけている。今度は適当なバスに乗ってしまってはいけない。15分くらい待ってようやく該当路線が来た。車内は大混雑だが、ヒナコにはすぐに席が譲られる。運転席後ろの向かい合わせの4人がけ席が優先席なのだが、窓側後ろ向きのひとりだけが老人ではなかったのだ。動き始めたバスの奥まった席──予想したことだが、ヒナコはよろけて前に座った爺さんの鼻を引っ掻いてしまう。うあぁ〜、ごめんなさい! かわりに私が謝る。慌てたヒナコは再びよろけて、今度は手前の婆さんの膝上に座ってしまう。ついでに向かい側の婆さんの足を蹴ってしまう。うあぁぁ〜〜、ごめんなさい、ごめんなさい!! 爺さんも婆さんも苦笑して、いいよいいよの手つき。うーむ、みんなどっこいどっこいの年齢の年寄り同士、お互い様というところかしら……。

とりあえず、出発点のコメルシオ広場の少し手前のカイス・ド・ソドレという駅まで乗ることにしている。国鉄カスカイス線とメトロの始発駅であり、テージョ川の対岸に渡るフェリーの駅でもある。その後の行動にも便利だろうし、フェリーの出る場所なら川を望む場所が開けているだろうから。私は立ちっぱなしなので車窓風景が確認しづらい。頭を屈めて覗く窓から時折見える夕陽は、かなり赤く大きくなっている。……沈むまでに間に合うか?

車内は混んではいるが、その後乗って来る人は少なかったので、奥に押しやられることもなくヒナコから離れずに済んだ。彼女を慌てさせることなく、降りる人たちもたくさんいたので、無事にカイス・ド・ソドレで下車。空には夕焼けが広がっているが、まだ陽は没していない。何とか間に合いそうだ。

船上の夕暮れ、対岸の夜景

バス停から川に面したフェリー駅方向に急ぐ。フェリーに乗りたかったわけではなく、フェリー乗場の横に川を望む展望スポットがきっとあるだろうと考えてのことだ。果たして想像どおりの場所に広場はあった、ぐるりと板塀で覆われた工事現場の形で。ええーっ、改装中?? 完成後にはベンチとか並べられた小洒落たビュースポットとなるのだろうが、今現在はただの工事現場でしかない。

フェリー駅の奥からテージョ川を見られないかなと思い、中に入ってみるが、そんな都合のいい場所はない。フェリーといっても対岸のカシーリャスCacilhasへは僅か10分、15分おきにガンガン出ている渡し船のようなものなのだ。見回してみると、改札機の上の電光掲示板が「カシーリャス行き あと1分で改札終了」とぴかぴか点滅しているところ。ふと横を見ると自動券売機がある。誰も並んでいない。これはもうフェリーに乗ってしまおう! フェリーの上から夕陽を見る! 決まり!

庶民の足なので料金も僅か€ 0.74ぽっち、香港のスターフェリーのようなものだ。大急ぎで切符を買い、改札を通って、桟橋を渡る。私たちが乗り込むなりゲートが閉められた。ぎりぎりセーフである。夕陽を見るのが目的なので、一目散に最上階の展望デッキへ。空と川面を染める一面のオレンジ色、4月25日橋の黒いシルエット、その向こうに朱く揺らめく入り日、ぽつりぽつり点り始めた外灯の煌めき……、期待通りの絵に描いたような黄昏風景だ。

>>ここでも、とても美しい夕景写真が撮れたのだが……。うう、悔しい。

僅か10分、¥115のクルーズ。船を降りると、もう暗くなっていた。そういえば、昼過ぎからちゃんと休憩をしていない。日が落ちて肌寒くなってきたところだし、適当なカフェに入ってココアを頼む。やっぱりたくさん歩いていたようで、太ももが軽く張っているし、腰もじんわりと痛い。小一時間ぼーっと座っていた。温かく甘いココアが身体に優しい。

フェリー会社のHPよりお借りした。カシーリャス往復のミニ・クルーズは手軽で楽しい。カシーリャスからはベレン行きのフェリーもあるので、時間のある人は川からアプローチするのもいいと思う

休憩後、対岸のリスボンの夜景を眺めるべく川岸に行ってみるが、今ひとつ綺麗でない。灯りが暗すぎるのだ。とっとと戻ることにする。
切符を買おうとして自動券売機の投入口を見ると、何と€ 0.01コインまで受け付けている。普通にヨーロッパを歩いていると、€ 0.01コインや€ 0.02コインはまずは使い途がない。カフェなどではそんな端金のお釣は最初から切り捨てられてたりする。スーパーで買物した時などにもらった小銭以下の極小銭……邪魔なのでとりあえず小袋に除けておき、空港の募金箱に入れちゃおうと思いつつ忘れていたりした。そのじゃらじゃら入った小袋がポケットにあった。何故、今日に限ってこれをポケットに入れていたのだろう? 神のお告げ? 40〜50枚……€ 0.5くらいはありそうだ。これ、入れてみる?

券売機が混んでいたら、そんな迷惑千万な行為は出来ないのだが、誰もいないのをいいことにチマチマとコインを投入。驚くことに極小銭だけで€ 0.64もあり、€ 0.1の追加でひとり分のチケットが買えた。1円玉と5円玉だけで電車の切符買うようなもんですね(笑)。そういうわけで、スペインやイタリアやドイツやオーストリアなどなど、ユーロ圏を旅する度にじわじわ溜まった極小コインは、ポルトガルはリスボンのフェリー乗場の券売機にすべて呑み込んでいただいた。

註)ポルトガルでも大抵の自動販売機は、受け付けコインの最小は€ 0.2からだった。たまに€ 0.1も可能。€ 0.01からOKなのは、私の遭遇した範囲ではここだけ。ミニ・クルーズを楽しむついでに極小コインも一掃。でも、くれぐれも人のいない時にしましょうねー(笑)

再びフェリーでカイス・ド・ソドレまで戻り、一駅だけだがメトロに乗る。歩いてホテルに戻るには上り坂なんだもの、地下鉄駅からならエスカレーターで昇れるから。

カイス・ド・ソドレ駅のタイルアート。ヒナコは『不思議の国のアリス』を読んだことがなかったようで、この絵が何を意味するのかは解らなかった模様。リスボンメトロのHPよりお借りした

急遽あてがわれたホテルであり、タクシーで連れて来られたので、ホテル周りの地理をしっかりと把握していない。ヒナコを部屋で休ませている間にひとりで周辺を俳諧して廻った。ついでに夕食のレストランを物色する目的もある。一週間を過ぎてそろそろ疲れの出てきている頃合、親子喧嘩も本日勃発したこともあり、店を求めて夜道をウロウロするとヒナコが再びキレるであろうことは容易に想像出来たからである。

小一時間歩き回って、裏手に広がるバイロ・アルト地区Bairro Altoをだいたい掌握。これでこのエリアで食事後、ホテルまで真直ぐ帰れる。ガイドブックに載っていたビアレストランの場所も確認。ガラス越しに覗いてみるととても良さそうな雰囲気だし、外にあるメニューを見ても手頃な値段。よし、今晩のディナーはこの店に決〜めた。

ちょっぴり残念な夕食

8時過ぎ、ヒナコを連れてさっき目をつけたビアレストランへ向かう。ところが、店の前には長蛇の列が道路にまではみ出ているではないの! え? 何? このヒトたちは? どうやら大人気のお店のようだ。絶対にアタリの店なんだろうが、並んで待つにはちょっとばかり行列が長過ぎる。リスボンに1泊だけなら意地になって並ぶところだけどね、明日か明後日に少し早めに来ればいいか……。

諦めて別の店に向かう。2ブロックばかり離れた場所のその店は、とりあえず目星はつけてはみたものの何となく嗅覚にストライクな感じがしなかったところ。次点に考えてたお店はもう少し遠いので、これから動くとまたヒナコがゴネるであろう。

というわけでストライクからちょっとズレるが、そのお店に入ることにした。とりあえず外のガラスケースには魚介やお肉の食材がイイ感じで並べられていたし、決して“悪くはない”ハズ。外観の印象では「庶民的な食堂」と見ていたが、中に入ってみると「気軽な居酒屋」の雰囲気だった。造りはポルトガルに多くある伝統的大衆食堂風なのだが、壁や天井やカウンター台などにはサッカーチームのペナントやユニフォームや選手の写真がびっしりと貼付けられた内装だったのである。ヒナコにしてみれば「色の洪水」であった。テーブルはほぼ9割がた埋まっている。子供連れや若いカップルや学生風の女のコたちなどなど、気軽に楽しめて、騒々しさが適度に心地いい感じの店。

オーダーをすませてから、天井をぐるりと見回してみる。真っ先に探したのは臙脂ががった赤色をしたポルトガル代表のユニフォーム(実はずっと前からフィーゴが好きなの。今はクリスチアーノ・ロナウドが好きなの。だからポルトガル代表は好きなの♪)だったが、それは見当たらない。ポルトガル・リーグのクラブチームのペナントばかりだった。そこまでサッカーには詳しくないので、辛うじてわかったのは、リスボンの「ベンフィカ」と「スポルディング」、ポルトの「FCポルト」の3つだけだった。

お店のHPよりお借りした。内装自体は、古いタイル装飾なんかがイイ感じなんだけど。ペナントべたべた貼るなら、無地の壁にした方がいいかもね…

さて、ポルトガルはスープが美味しいということがわかったので、今日も本日のスープ、カルド・ヴェルデを1つずつ頼んでみた。本日のスープはやはり野菜のポタージュ。どこで頼んでも、安くて絶対に外さない味だ。カルド・ヴェルデは直訳すると「緑のスープ」。ポテトのポタージュに千切りのチリメンキャベツとスライスしたサラミソーセージが1〜2枚、オリーブオイルをひと垂らし。このチリメンキャベツ、キャベツの外側の一番外側の葉っぱをもっと青くて固くしたようなもので、ほうれん草のような色をしている。歯ごたえと軽い苦味があって、ほの甘いポテトスープにとってもマッチしている。うんうん、どっちも美味しいや。

でも、メインの2つはちょっと失敗してしまった。
きのこのオムレツは、味としては外しようがないはずなのだが、コインブラでのハムオムレツ同様、卵に火が通り過ぎている。スパニッシュ・オムレツのように具をたくさん入れてどっしりと焼かれたものなら、それはそれで美味しいのだけど……。結論。ポルトガルのオムレツは今ひとつである。オムレツに限っていえば、フランス風のふわふわのが好きだな。

もうひとつはイカのフライ。お隣の国スペインで一番気に入ったメニューは、パエーリャでもトルティーリャ(スパニッシュ・オムレツのこと)でもガスパチョでもなく、イカのフライだった。「カラマーレス・フリートス」という名前も覚え、3日おきくらいにオーダーして、どこでも外すことのなかった料理だったのだ。あまりの美味しさに自宅でも再現したくて、料理の本まで買って帰り、一生懸命レシピを訳したくらいだ。

註)「小料理屋・雀」にレシピ載せてます。揚げ油にオリーブオイルを使えば、なお完璧。

イカに下味をつけて、卵液など搦めず、パン粉でなく小麦粉だけを薄くふって、オリーブオイルでサクっと揚げたフライ……。まぶす小麦粉にみじん切りパセリなどが入っている場合もあった。これは大皿山盛り食べても胸焼けしなかった。イタリアで食べた魚のフライも薄く粉をまぶしただけでサクっと揚げられたものだった。だから、ポルトガルのフライもきっとそうだろうと思うものじゃない? が、ポルトガルのイカフライは「日本の天婦羅」に近い、練った衣のついたものだった。

イカ自体は新鮮で、柔らかく、身もプリプリしている。塩胡椒とレモンだけの味付けだって全然問題ない。ちゃんと「美味しい部類」に入る範囲だ。というか、日本のご家庭で普通に作るイカの天婦羅って、ものすごく料理にこだわる人以外ならこんな感じになっちゃうんじゃないかな。でも、油を吸いやすい練った衣のフライは、少量ならなんとかなっても山盛りではちょっとね。スペインのイカフライと比較しなければ、美味しくいただけたのにな……。

大衆的な店なので、テーブルの間隔も狭い。隣は、仕事帰りか学校帰りにちょっと友達とお喋りがてら食事といった感じの女のコ二人連れ。彼女たちはひとり一杯ずつスープを飲み、アサリ炒めのようなものを二人で突つきあっている。さらに小鰺の南蛮漬けのようなものを2尾ずつ、魚介のリゾットを一皿ずつ、篭に盛ったパンもチーズも平らげている……。いやぁ、よく食べるなぁ。この食生活が、若くてほっそりしている今の身体を10年後にあのどっしり臀部にしてしまうのね、きっと。

それはいいとして、オムレツとイカフライが微妙に期待外れだったので、隣のアサリと鰺が羨ましくて仕方ないのである。「ああぁ〜、鰺半分残しちゃうんなら頂戴!」とか言いたい気分(笑)。
不味いわけではないので、きちんと完食はしたけどね。どうせお金払うなら、より美味しいモノを!という飽くなき上昇指向(この場合は単に食い意地と言う)が、今ひとつ満たされなかったというだけのこと。

落ち着いて食後のカフェを楽しむ雰囲気ではなかったので、食べ終わってすぐに店を出る。ハーフのワインと合計で€ 27.50。激安ではないけれど、都会だから仕方ないのかも。たまたまオーダーのチョイスを誤っただけかもしれないので、ちゃんと美味しいメニューは存在していると思う。現に「小鰺の南蛮漬けらしきもの」は、美味しそうに見えたもの。地元の人で賑わっている様子からすれば、手頃で美味しい店なんだろう。サッカー好きの人は興味あったら是非。大型スクリーンを置いたりしている「スポーツバー」みたいなものとは違う。ただサッカーグッズで飾り立てているだけの普通のレストランだ。
Adega S.Roque [>>WEB ]』。バイロ・アルト地区のサン・ロケ教会Igreja de São Roqueのすぐ近く。



ポルトガル観光局HPよりお借りした。

クラシカルで重厚な店内。地下はちょっとしたレストランになっているようだ

食後のコーヒーを飲みに、ホテル隣のリスボン最古のカフェ、『ア・ブラジレイラCafé a Brasileira』に立ち寄ることにした。知識人や文化人がたむろしたという、ひと昔前の「古き良き時代のカフェ」を彷佛させる、豪華で且つ渋い内装。老舗でこの雰囲気だったら高いなかー…と思っていたら、エスプレッソ1杯が僅か€ 0.8だった。そこらへんのカフェと同じ。観光客だけでなく地元の人たちでも大賑わいなわけだ。オリジナルの豆を使用しているようで、カフェは濃くてとてもとても美味しかった。

バスルームで軽く一悶着

本日はバス移動があったにもかかわらず、よく歩いたようで久々の2万歩超えの20698歩。ゆっくりお風呂に浸かりたい。
ところが、洗顔と歯磨きをしようとしたヒナコが騒ぎ始めた。コップが置いてない、というのである。正直に言わせてもらえば私にとって、歯磨き用のコップなんて、あれば使うけど無ければ無いでどうしても困るものではないのである。単なる掃除の時の置き忘れなんだから、頼めば持って来てもらえるけど、もう時間も遅いし眠くて眠くてたまらなかった。
「どうしても要る? 明日頼むんじゃダメ?」と聞いても
「どうやって口をすすいだらいいのよ!」と大騒ぎ。そんなの蛇口から手ですくえばいいじゃん……と、私は思うんだけどねぇ。でもまあ、ちょっとお茶を沸かして飲みたい気分でもあるし、それならとフロントに電話してあげた。

「すぐ持って来るって言ってるから、先にお風呂入ってるよ」と言ったところ、
「あなたがいない間に来たら、困るわよ!」またもヒナコは大騒ぎ。困ることないでしょ、ドア開けて受け取って「サンキュー」ってにっこりすればいいんだよ。でも
「ダメ! そんなこと出来ない出来ない」まったくもう……幼稚園児以下だよ……。
仕方がないので着替えもせずベッドに転がって待っていたが、30分経っても誰も来ない。じっと転がっていると、瞼が重量挙げをしているように重くなってきた。ねえ……もう面倒なんだけど……。でも、ヒナコはガンとして歯が磨けない困る困ると言い張る。仕方ないので、再びフロントに催促の電話をする。眠くてたまらないところをヒナコにヤイヤイ言われたせいもあり、かなり強い口調になってしまった。「グラス持って来てって30分も前に頼んだのに、まだ届かないわよッ」

流石に私の剣幕に驚いたかすぐにフロントマンが持って来た。少し不機嫌そうな顔で「ほらよ」みたいにグラスを差し出す。ふん! 何さ、そっちが置き忘れた上に延々待たせたんじゃないのさ「Sorry」くらい言えよな。
「ほら! お待ちかねのコップ届いたわよッ! 私、お風呂入るからね!」
勢いよくシャワーカーテンを引くと、壁のホルダーに2つちゃんとグラスはセットされていた。カーテンが引っかかっていて見えなかっただけだったのだ。ああーッ、ヒナコ〜〜〜ッ! どうしてちゃんと探さないのよぉ!!! フロントのおじさん、八つ当たりしてごめんなさいッ。すみません、明日お会い出来たら「勘違いでした、ごめんなさい」いたしますぅ。

穴があったら入りたい気分だが、穴はないのでお風呂に入ろう。
が、バスタブに栓が無かった。今度こそホントーに無かった。いや、もう申し訳なくて頼めないし。だいたいこっちの人たちは日本人ほど湯舟に浸かることを大事にしていないので、栓なんてコップよりもどうでもいい存在なのだ。ガムテープでバッテンに塞げばそれで良し!

グラスとバスタブの栓騒ぎで1時間近く費やしてしまった。先にたたないからこそ後悔というのであろうが、この1時間をぼけーっと過ごしてしまったことを、つくづく後悔することとなる。こんなに時間があるのなら、パソコンを立ち上げてカメラから画像データを移しておくべきだったのだ。カードの容量はまだあるし、明日の晩でいいか、と思ったのが間違いだった。パソコンにコピーしておけば、少なくとも昨日と今日の写真はすべて救済されたはずだったのだから……。

教訓:データのバックアップはマメに取るべし。記録メディアは大容量ではなく、小容量複数にして紛失時の被害を最小限に食い止めるべし!


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