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手術まで首を洗って待つのみ

手術──再び辛く長い一夜

なんでこんな手術受けちゃったんだろう……

再建乳房と感動の初対面!

再び苦しむ激痛の夜

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快復停滞の分岐はどこにあるの?

そろそろ退院が視野に入ってきたかな

30日ぶりで外の世界へ

背中の大怪我、続行中

ドレーンを入れての強制排液

「カサブタ剥いじゃおうね」

恐怖の溶解脂肪ダダ漏れ事件

医療従事者と患者との間には温度差がある

傷口が裂けちゃった!

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遺伝性乳癌による予防的乳房切除に思うこと

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旅立ってしまった友

2013年8月15日、乳癌仲間のNさんが痛みも苦しみもない世界へと旅立ってしまった。享年36歳、誕生日を迎えて3週間めだったそうだ。

Nさんと知り合ったのはエキスパンダー抜去手術の入院時、2012年4月末のことだ。M病院の乳腺センターにY先生はもういなかったから主治医は別だったけど、彼女も皮下乳腺全摘してエキスパンダーを挿入する手術だったので、形成のS先生にも診てもらっていた。病室は別だったけれど、毎日処置室で顔を合わせていた。

入院中にはNさんと深い話をすることはほとんどなかった。Nさんだけでなく、何人かの自家組織再建の入院患者さんたちとも私はあまり積極的に交流をしようとしなかった。だって、三度目のあの時の手術は私にとって一番悲しい手術だったのだもの。人工物での再建の可能性を完全に否定されて最低に落ち込んでいて、何も前向きに考えられなかった。他人の闘病話を聞くのも自分の闘病話を語るのも最低限にしか出来なかったし、人の心に寄り添う余裕が十分に持てなかった。そんな自分が嫌だった。ラウンジに集まってのお喋りの輪にもちょっとしか加わらず、ほとんどの時間を病室に引きこもって過ごしていた。みんな、それぞれの物語を持っていたはずなのにね……。

彼女の癌は初発だけど進行の早いタチの悪いもので、発見時には数mm〜2cmの腫瘍が乳房内に4つ、腋リンパ節の転移も19個もあった。職場で毎年受けるマンモグラフィ検診で、数ヶ月前に石灰化を指摘され再検査の結果、経過観察になっていたのに、急速に増殖したのだ。癌の中では比較的進行の遅い乳癌としては考えられないスピードだ。

最初は脇の下に何かがはさまっているような違和感だったという。2月半ば頃から気になり始め、脇を触ろうと何気なく手をやったところ胸に手がぶつかりゴリッとしたしこりに触れ、「乳癌──それも転移してる?」と驚いたのが3月半ばのこと。あわてて受診した病院では即座にいくつもの検査予定が組まれ、数日で確定診断が下り、その数日後には化学療法が始められ、手術日もねじ込むように決められたという。主治医は終始「一日でも早く治療を始めなくては」「とにかく急がなくてはいけない」と口にしていたそう。

乳癌の増殖の3大因子は、エストロゲンとプロゲストロンの2つのホルモンとHer2遺伝子だが、彼女はそのすべての受容体が陰性のトリプルネガティブ乳癌だった。

乳癌は十人十色とはいうけれど、ホルモン受容体が陽性のルミナールAタイプ、ホルモン陽性で悪性度が高くなるルミナールBタイプ、Her2蛋白が癌細胞に過剰発現するHer2タイプに大雑把に分けられる。でも、乳癌患者全体の10%強くらいがこのどれにも属さない。増殖原因が明確に分類できないトリプルネガティブは一人一人がそれぞれ別のタイプの癌だと言っても過言ではない。敵の弱点が見えにくいが故に、一般的に予後不良と言われるけれど、実は半分以上の人には化学療法がよく奏効する。さまざまなタイプのトリプルネガティブ乳癌に対する何種類もの抗癌剤の奏効率などのデータもかなり出揃ってきている。
ただ、彼女のトリプルネガティブ乳癌は特殊型で未分化の珍しいタイプで、増殖率がとんでもなく高かった。私は5%にも満たなかったki-67の数値が、彼女は70%を超えていたのだから。ki-67とは分裂中の細胞の割合を示す数値のことで、数字が高いほど増殖のスピードが早いということになる。

ki-67については、以前にY先生がとてもわかりやすく「もぐら叩きゲーム」に例えて説明してくれたことがある。5%ということは20個の穴からもぐらが1匹顔を出していて他の19匹は待機状態にあるということ。そういう人には抗癌剤の大量投与をしても効果は薄く、身体がダメージをくらうだけなので、長期間同じペースでポクポクと叩き続ける治療が有効というわけ。対して一度にたくさんのもぐらが同時に顔を出している場合は、強力なハンマーでボコボコめった打ちの短期決戦型絨毯爆撃をしなくてはならない。
抗癌剤を使うか否かのボーダーは14%(26%とする説もある)だというから、Nさんの70%という数値がいかに尋常でないかわかる。

術後わずか4ヶ月で、彼女は肝臓と骨に再発転移した。4クールの化学療法を終え、上乗せする別種の抗癌剤を1回終えたところだった。乳房を全摘してリンパもすべて郭清して癌は取り切ったはずだったのに、たたみかけるように抗癌剤を投与していたのに、こんな早い期間で再発転移するなんて。薬はこれぽっちも奏効していなかったのだ。2ヶ月先に確定していたシリコンインプラントへの入れ替え手術も無期限延期になってしまった。
その後7〜8種類の抗癌剤を取っ替え引っ替えし、治験段階のペプチドワクチンも受け始め、それにもかかわらず肝臓の転移病巣は広がり背骨の転移も数ヶ所に増え、さらに鎖骨下のリンパにまで転移は広がっていった。3週間おきの点滴による化学療法、2週間おきのペプチドワクチン注射、定期的な腫瘍マーカーのチェック、頻繁なPET-CT検査……そんな治療漬けの毎日ながらも、彼女は出来るだけ普通の日常を送りたい社会と繋がっていたいと、会社勤めを続けていた。病気をカミングアウトしたのは直属の上司と2〜3人の同僚だけにだったそうだけど、彼らの理解と協力があってこそ続けられたことで、その点ではおそらく彼女は幸せだったと思う。

同時期の入院患者さんたちと積極的な交流を避けていた私は、メールアドレスの交換などもしていなかったので、彼女のこうした経過をまるで知らなかった。ちょうど1年後の2013年4月、偶然に彼女のブログを見つけたのだ。実名は伏せられていたけれど、手術日時や入院中のエピソードからNさんとわかり、克明に記された記述を読破して1年間の経緯をすべて知った。すっかり元気になって、今頃はシリコンインプラント再建も終えて、抗癌剤で脱毛した髪も戻り始めているかと思っていたのに、そんな大変なことになっていたなんて!
こうしてNさんとの交流が再開されたのだった。

その頃の私は再建乳房からの脂肪ダダ漏れと背中の傷の治療とで頻々と通院していたので、彼女と受診日を揃えるのは容易く、診察が終わってからランチしたりお茶したりした。5月末までは彼女はまだその程度に元気だった。本当はずいぶんつらかったのだろうけれど、彼女の「出来るだけ普段通りに生活したい」との思いがまだ病に負けてはいなかったのだろう。

最後にランチをしてから数日後、骨転移の痛みの緩和にと取っ替え引っ替え処方される鎮痛剤が効かなくなってきた。肝臓の転移が8cmにも大きくなって胃と周辺神経を圧迫し、常に痛みが出てほとんど食事が摂れなくなった。そうした病状と治療の記録は毎日のようにブログに綴られるが、私はほとんどコメントを残すことが出来なかった。彼女のブログに集まるのは病状が深刻な人たちが多く、癌治療に関しては苦しい思いをしていない私のコメントはどこか空々しく嘘臭くなるように思えたから。

もうランチやお茶が出来る状態ではなかったけれど、受診日には必ず隣の乳腺センターの待合室を覗いて、彼女の顔を見て声をかけることは続けていた。6月末になって痛みの緩和と骨への放射線治療のために3週間ほど入院することになり、2度ほど病棟まで行ったが、会えずにお見舞いの品を届けることしか出来なかった。この入院時に余命を告げられていたということは後で知った。

7月上旬には退院し、4時間勤務だけど職場復帰したとのメールをもらい、痛みのコントロールがうまく出来るようになったのかとちょっと安心していた。そうやってうまく癌と共存しながら少しでも長く日常生活を送っていけますように──そう祈っていた。

7月の末、外来で抗癌剤投与した記述を最後にブログが更新されなくなった。

最後の更新からわずか3週間でNさんは旅立ってしまったのだが、私の連絡先はNさんのスマートフォンの中にしか存在していなかったので、彼女の死をきちんと知らされたのは10月に入ってからのことだった。
久し振りに届いたNさんからのメールは、Nさん本人ではなく彼女のお母さまの書いたものだった。使い慣れないスマホを一生懸命操作して私を探り当てたに違いなく、生前のNさんの話を聞かせて欲しいという内容がたどたどしい文面で綴られていた。私が話せることなどたいしてないのだけど、親御さんの心理としてはどんなことでも知りたいのだろう。

私自身、お母さまと直接話をすることは想像以上に心にダメージをくらうことで、どっぷりと気持ちが落ちた。
「子供は親より先に死んではいけない」詮無いことではあるけれど、つくづくと思った。子供を喪くす親の悲しみは親を見送る子供のそれの何倍も深い。痛いほどの悲しみだ。
乳癌は罹る人も多いけれど、だからこそ研究が進んで薬の種類も豊富で、標準治療がしっかり確立されていて治る人もたくさんいる。短絡的に「癌=死」というわけではないけれど、やはり死に至る人も多いのだ。自分が罹った病はそういう病なのだ──改めて現実的な恐怖を突きつけられた思いだった。

Nさんは我慢強く寡黙な人で、家族にも詳しいことはほとんど話していなかったそうだ。治療内容を詳細に語ることもなかったし、再発転移がわかっても半年以上も黙っていたし、痛みが強くなってもめったにそれを口にすることはなかったと言う。そのかわりブログに病状も治療内容も経過も検査結果も逐一書いていて、弱音もいっぱい吐いて、たくさんの仲間たちから励ましや心配する言葉をもらっていたのだ。
当然ながらお母さまは彼女がブログをやっていたことを知らなかった。彼女が最後まで秘密にしていたブログの存在を私が教えてしまっていいのか、しばらく悩んだ。あのブログはNさんの壮絶な治療と苦しみの記録なので、親御さんにはとても辛い内容のはずだから。私は子供を持たなかった身なので、本当のところは実感できないが、それなりに人生経験を積んではきているから多少は斟酌できるはず。私はNさんと親御さんの真ん中の年齢だけど、微妙に親御さん寄りのような気がするし。私が親御さんの立場だったらきっと、どれほど辛くても知りたいと思ったろうし、知るのは親の義務とも考えただろう。彼女を励まし支え合うたくさんの同病の仲間たちの存在は慰めに感じるだろうし、心配し続けてくれる人たちにきちんと報告してお礼を言いたいだろう。
だから、心の中で「ごめんね、教えちゃうよ」と謝って、URLを伝えた。それでよかったのかな……よかったんだよね?

あれほど痛みに苦しみ続けていたNさんだったけど、最後の2週間足らずの入院期間はほとんど痛むことも苦しむことも少なく穏やかで、ご家族ともしっかり会話して過ごしたそう。

最期の言葉は「疲れたから少し眠るね」だったそう。明日また来るからと言う妹さんにしっかり目を合わせて返事をし、飲み残したジュースの続きを後で飲むからと言って15分後、そのまま永遠に眠ってしまったと。パンパンに膨れていて可哀想だからと、看護師さんが遺体から抜いてくれた腹水は4リットルもあったそうだ。
お骨の中には円盤状の薄い金属片が焼け残っていたという。シリコンへの入れ替え手術直前に再発がわかって、入れ替えが叶わずに挿入したままだったエキスパンダーの注入弁だった。

Nさんの遺影の笑顔は私の知るものだったけど、ストレートのロングヘアだった。癌治療を始めてから出会った私は、ショートのウィッグ姿かコットンのケア帽子姿の彼女しか知らなかったのだ。Nさん、綺麗な長い髪をしていたんだね。

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